2012年5月26日土曜日
杜甫 2題を訳す
何ヶ月か前にツイートしたけど、備忘代わりに再掲載します。
ボクは、李白のはっちゃけ感も嫌いではないのですが、どちらかというと杜甫のトホホな感じがすきなのです。
井伏鱒二さんの訳に感化されてます。
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『絶句』 (杜甫)
江碧鳥逾白 山青花欲然
今春看又過 何日是歸年
『カワハ・・・』
カワハコンペキ トリキヨラカニ シロ
ヤマハシンリョク ハナモエタッテ クレナイ
コノハルモマタ コノナガメ
ウマレコキョウガ マタトオザカル
訳 なかぎり
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『旅夜書懐』 (杜甫)
細草微風岸 危墻独夜舟
星垂平野闊 月湧大江流
名豈文書著 官應老病休
飄飄何所似 天地一沙鴎
『タビノ ヨルニ オモウ』
キシノソヨカゼ ノヲヒトワタリ
ヒトリネツケヌ ヨルノフネ
マンテンニホシ ツヅイテハルカ
カワモハツキヲ ウツシテハルカ
イッペンノシダケ ヨニノコシ
ツマランシゴトハ ホオリダソウ
カッテキママニ サスラウサマハ
アノスナハマノ カモメカナ
訳 なかぎり
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2012年5月4日金曜日
思うことと私のこと、少し(2)
この間の続き(備忘に書いた課題ね)を書こうと思ったのだが、その前にはっきりさせておいたほうがよいものがある。
書かねばならん内容は明確にあったが、私はそれをここに書く時期をグズグズと考え続けていた。
しかし、よくよく考えてみるとここは自分の考えを晒す場所なのだ。
書くことにより、何を失うことがあろうか。何を怖れる事があろうか。
私は、笑いものになるつもりで書き始めたのだ。
そんなことをダラダラ考えるのなら、そもそもこんなことをしなければよろしい。
で、「ア・ぽろん」の事を書く。
私は、好きでこの「ア・ぽろん」という会を立ち上げた。
私は当初から「ア・ぽろん」を、全ての「自由律」を愛する人の集いと規定していた。
では「律」とはなにか。
論旨が拡散するのを防ぐために、ここでは『表現』と言うものにおける「律」のみに言及しよう。
私は「律」とは、ひとつの『決め事』と認識している。
表現において、どんなものにも『決め事』はある。
それがたとえ、現状にそぐわないものであろうが、状況を維持するのに必要なものであろうが、不当と感じるものであろうが、『決め事』は厳然として存在する。
この存在を、私は否定しない。
先人が営々と積み上げてきたものだ。頭ごなしに破り捨てるのは、すなわち今の自分を無条件に投棄するに等しい。
「律」とは、その成り立ちを考慮すると、それが固まった時点でもう先端ではなくなる。
このため、表現をある一定水準に保つための『決め事』であると同時に、その表現を縛り付けるための『決め事』にもなりうる。
「ア・ぽろん」では、この「律」という『決め事』をスプリングボードにして、どこまで跳躍し、そして離れすぎずに「自由」という相対的な位置が確保出来るかを模索する場所としたい。
「ア・ぽろん」は、人格的なイデオローグではない。
「ア・ぽろん」は、容れモノである。
会員のみんなにとって「基地」や「宿り木」、「実験室」と解釈してもらってもかまわない。
そこで何かを得て飛び立つ人もいれば、飛びすぎて二度と帰ってこられなくなる人もいるかもしれない。
あるいは一度羽を休めて毛繕いをし、また旅立つための場所であってもよい。
いつも立ち寄る立ち飲み屋と考えてもらっても、よろしい。
むろん「ア・ぽろん」という容れモノとして、その時にそこに居合わせるメンバーで何か纏まりのあるモノを発信もしたい。
ただ、それが句集なのか写真集なのか絵画集なのか、絵本なのか映像や音楽なのかは、今のところはわからん。
わからんものは、わからんのだ。
これを読んだ会員やそれ以外の人が、何をどう思うのかは皆目見当もつかない。
私は、何が起きても、それを受入れる。
乱暴に、終わる。そして、続く。
・・・たぶん。
書かねばならん内容は明確にあったが、私はそれをここに書く時期をグズグズと考え続けていた。
しかし、よくよく考えてみるとここは自分の考えを晒す場所なのだ。
書くことにより、何を失うことがあろうか。何を怖れる事があろうか。
私は、笑いものになるつもりで書き始めたのだ。
そんなことをダラダラ考えるのなら、そもそもこんなことをしなければよろしい。
で、「ア・ぽろん」の事を書く。
私は、好きでこの「ア・ぽろん」という会を立ち上げた。
私は当初から「ア・ぽろん」を、全ての「自由律」を愛する人の集いと規定していた。
では「律」とはなにか。
論旨が拡散するのを防ぐために、ここでは『表現』と言うものにおける「律」のみに言及しよう。
私は「律」とは、ひとつの『決め事』と認識している。
表現において、どんなものにも『決め事』はある。
それがたとえ、現状にそぐわないものであろうが、状況を維持するのに必要なものであろうが、不当と感じるものであろうが、『決め事』は厳然として存在する。
この存在を、私は否定しない。
先人が営々と積み上げてきたものだ。頭ごなしに破り捨てるのは、すなわち今の自分を無条件に投棄するに等しい。
「律」とは、その成り立ちを考慮すると、それが固まった時点でもう先端ではなくなる。
このため、表現をある一定水準に保つための『決め事』であると同時に、その表現を縛り付けるための『決め事』にもなりうる。
「ア・ぽろん」では、この「律」という『決め事』をスプリングボードにして、どこまで跳躍し、そして離れすぎずに「自由」という相対的な位置が確保出来るかを模索する場所としたい。
「ア・ぽろん」は、人格的なイデオローグではない。
「ア・ぽろん」は、容れモノである。
会員のみんなにとって「基地」や「宿り木」、「実験室」と解釈してもらってもかまわない。
そこで何かを得て飛び立つ人もいれば、飛びすぎて二度と帰ってこられなくなる人もいるかもしれない。
あるいは一度羽を休めて毛繕いをし、また旅立つための場所であってもよい。
いつも立ち寄る立ち飲み屋と考えてもらっても、よろしい。
むろん「ア・ぽろん」という容れモノとして、その時にそこに居合わせるメンバーで何か纏まりのあるモノを発信もしたい。
ただ、それが句集なのか写真集なのか絵画集なのか、絵本なのか映像や音楽なのかは、今のところはわからん。
わからんものは、わからんのだ。
これを読んだ会員やそれ以外の人が、何をどう思うのかは皆目見当もつかない。
私は、何が起きても、それを受入れる。
乱暴に、終わる。そして、続く。
・・・たぶん。
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