2012年7月10日火曜日

『人間失格』読後感


 ボクは、ダムというものを世にもおそろしい造形物だと思い込んでいる。

 谷あいで水を塞き止めているあのコンクリートのダムのことだ。

 ほど小さいダムでも、むやみと怖ろしい。

 ダムの上辺は、たいがい歩道になっている。

 たとえば、そこから眺める左手には満々と水が蓄えられていて、それを歩道の手すり越しに覗き込むのもそれなりに怖ろしい。
 水面までの距離が存外遠く、そしてその不吉な水の色あいから想像できる水底までの距離もさらに遠い。

 だが本当に怖ろしいのは、その反対側の右手にある壁面なのだ。

 ダムの水をたたえていない側の壁面ほど怖ろしい建造物は、そうあるものではない。

 この壁がいっそ垂直ならば、さほどの怖ろしさは感じない。
 それは単に高所に対する恐怖のみで、いさぎよく落ちてしまえばそれっきりのもの。
 そう思える建造物や自然の造詣は他にいくらでもある。

 だがダムの場合、上から覗き込むとある一定の距離までは垂直に近いのだが、そこから下がいけない。
 わずかずつ、気づかない程度に曲線を描いて、下に行けばいくほどその曲線がしゃくれている。
 かといって地面に接するまでに平坦になって帳尻が合うわけでもなく、まことにキリの悪いところで曲線のまま終わっている。

 これが実によろしくない。

 この壁の中ほどの、わずかに曲線がつき始め、かろうじて滑り降りない程度の辺りに自分が立ちすくんでいるところを想像するともういけない。
 滑り落ちるのを必死にこらえ、両手を壁に押し付け、つま先に全神経と体重を預けながら身じろぎも出来ずに脂汗を流している自分を想像してしまう。

 なまじ何とかなりそうなところが、より一層怖ろしい。
 何とかしている最中に何かの拍子にバランスが崩れれば、もう体中をコンクリートにいたぶられ続けながら滑落していくしかないのである。

 「人間失格」は、この感覚に満ち満ちていている。

 ダムの中ほどに某然と立つ太宰は紛れもなくボクの身代りで、その哀れな身代わりがジクリジクリと身をズラしながらどこに向かっているのかはわからないが、とにかくその場から移動しようとしている情景が浮かび上がり、傍目にもやるせなくってどうしたモノやら途方に暮れる。

 頑張れ、の掛け声も意味はなく、何しろどこに向かっているのかがわからない限り手の施しようもない。

 この「人間失格」のあとに執筆した「グット・バイ」が未完のままの遺作だと聞く。
 こちらにも触れる機会があったが「人間失格」に見る底意地が悪いとすら言える“ヒトいじり”の余韻を感じるものの、軽妙な内容を比較するとまるで太宰は失ったバランスを取り戻そうと苦闘しているようで、ただもう痛ましい。

 もし仮に、世に言われるように「人間失格」が太宰の自叙伝的な性質のものであったとしたところで、どうしてああも自分をバラバラにしなくてはならなかったのか。

 こうまでして自分を深堀りをする必要が太宰にはあったのだろうか。

 しかも、鋭利な刃物でスパリスパリとコレは腎臓、コレは気管支、コレは十二指腸といった具合に、ある種爽快に手際良く自らを献体としてその臓物のありかと形状を陳列してくれるのならたとえそれが血まみれであろうがいっそ諦めというか、気持ちの落としどころがある。
 が、これはもう本来的に切り裂く道具ではないもの、例えば鉛筆やフォークやシャベルのようなもので、えぐり取るような塩梅でその取り出されたモノ自体もキミの悪い色合いだけでかろうじて臓器である事がわかるものの型崩れがはげしく、その不気味さがなんともやりきれない。

 最後に、取って付けたように「いち狂人の手記」にしているところがなおさら哀れで、その手記を手に入れる作者はすこぶる健やかで、家族の為に身を動かしているものとしているところが、また物悲しくさえある。

 これを書いてしまったあとは、その先もう書くものがなくなってしまったのではないか。

 太宰は、いやはやこれからどうしたものやらと例のポーズで机に片肘をつき、なにに視線を向けているのか視力を眼球のなかにとどめているような顔つきで茫然としたのではないか。

 我が身を晒すにしても『桜桃』のように複数人の苦悩が交錯するものの中でいたずらに自分をおとしめるのみにならないものの方が、よろしい。

 凄惨な自己解体のテイのこの一作は、どうやらボクの中途半端な自分イジメ、あるいは自分ギライへの戒めであると受け止めるよりほか、今は取り扱うすべがない。

 ボクと太宰との違いは、その才能だけではなかった。

 まず、ここまでテッテイテキな自己解体の根気を身につけなかった事を親に感謝し、自分の愚物ぶりに感謝したい。

 そして最後に、ここは重要なところ。

 冗談ごとではなく、何より決定的に大きな違いは
 『ボクは彼のように、女にもてない』

                                               某年.某月.某日 某所にて



 以上の一文は、ある時期、太宰をこよなく愛する一女性に勧められて読んだ『人間失格』の読後感をその女性に贈ったもの。
 その女性については、ここでは触れる必要がないので省くが、恥ずかしながら、それまでの長い年月、僕はほとんど太宰に触れることがなかった。
 芥川一辺倒だったのだ。
 今から思うと、芥川一辺倒だからといって、太宰に触れない理由はない。
 きっと、太宰がなにやら辛気臭い割りにモテそうだったからであろう。


 あるいは、太宰メタルさんに激しい叱責を買う言い分かもしれない。

 でも載せちゃうのである。
 つまり
 『ボクは彼のように、女にもてない。でも、妙にふてぶてしいところがある』

                            - 了 -

2 件のコメント:

rococo さんのコメント...

再読しなきゃならなくなります!人間失格!

読めるのか、太宰さん!

フロヤマヨウゾウ さんのコメント...

ダムの描写。秀逸かつ大いに共感できます。私自身、実はダムを鑑賞するのが大好きで、特にあの傾斜を持つ壁面を眺めるのが溜まらないのです。今回、代表の文章を読んで、初めて『人間失格』を読むこととの類似性に気付かされました。
太宰さんの作品を読む際に、もっとも重要なのは、そこに自分の姿を映し得るかどうかだと私は考えています。ですから、共感できないなら読まなくてもいいとさえ思うのです。
実は、いくら私が太宰さんが好きだからといっても、すべての作品に共感を持てるかと言われれば、そうではありません。
若い頃は、後期の作品が苦手でした。しかし、年を経てみれば、後期の作品にこそ共感を覚え、あれほど胸躍らせた初期の作品には、あまり興味が無くなってしまっています。つまりは、共感のツボが変わったということなのでしょう。
ですから代表が覚えた“ダムの中ほどに茫然と立つ太宰”という名のシンクロニティは、もしかすると、コレを書いた当時の姿を表しているのかもしれませんよね。
ちなみに、私は『人間失格』を再読する気が、いまのところありません。なぜなら共感できないと思うからです。
共感できないなら読むな。これは『人間失格』だけではなく、すべての作品に言えることだと思います。
最後に、代表のこの文章を読んで、大いに刺激を受けました。実は最近ブログを書く気が無くて(笑)素晴らしい書評、ありがとうございました!