2012年6月29日金曜日

アぽろんという名の自由律な出会い


自分のブログさえままならないというのに、果たしてここに書くべきことがあるのだろうか? そんな自問自答に苛まされながら、私はいま、パソコンの前に座っている。

自由律な会「ア・ぽろん」 

これから私は、その専用ブログに文章を書きこもうとしているのだ。大体、自由律な会なのだから、自由律俳句だけをやっていればいいのではないか? わざわざ長文を書く必要など無いのではないか? 


いや、愚問だ。そんなことはどうだっていいのだ。“書きたいから書く”それが全ての答えなのだ。 

――仕方がない。
 
そう溜め息ひとつ漏らした後、キーボード上に指を這わせる。別に嫌なわけではない。これが私流の執筆準備なのだ。「参ったなあ」などと言いつつも、内心では飛び上がらんばかりにはしゃぎ喜ぶ。まあ、それと似たものだと思ってもらえばいい。 

ところで、私が自由律俳句に興味を覚えたのは、2年ほど前のことだったかと思う。友人から尾崎放哉の存在を知らされたのがきっかけであった。
 
“咳をしてもひとり” 


これにやられた。この短い句に私の心は打ち震えたのだ。この句が発する寂寥感や孤独感に、すっかり共鳴してしまったのである。
 
それから、しばらくして、自分でもやってみようかと思った。Twitter上で呟くことにしたのだ。丁度、飽きかけていたところであったから、新しいことを始めるのには都合が良かった。 

すると、いままで無かったことが起こった。リツイートやファボである。こともあろうか、私などの句を気に入ってくださる方が現れたのだ。これには嬉しかった。それまでは“呟いてもひとり”といった感じであったのだから。


それは一人の女性であった。ある日、私は“彼女”からリプライをいただいた。 

“その節はお手数をおかけいたしましたが、このたび無事にアカウントを引越しすることができました。こちらもフォローしていただけると幸いです。” 

確か、そんな内容だったかと思う。私自身は“彼女”とは会話を交わしたことが無かった。だから、きっと他の誰かと勘違いしているのだ。そう思った。
 
ただ、その日以来、彼女のことが気になるようになった。TL上で彼女のツイートを見かけると微笑ましく思えた。“彼女”もまた、自由律俳句をやっていたのである。 

だが、ここで私はある奇妙なことに気が付いた。私が使用していたのは“#自由律俳句”というハッシュタグ一つだけであった。だが、彼女のものにはその横に“#アぽろん”とあるのだ。 

――アぽろん? 



私は首を傾げた。よくよく見ると他にもこのハッシュタグを付けている方が結構いるではないか。それは、私の好奇心をくすぐるのに絶好の案件であった。そこで私は「アぽろん」について調べることにした。 

どうやら、「アぽろん」とは自由律俳句の会であるらしいこと。その代表は“なかぎり”という人物であること。入会するには“なかぎり”氏の“アぽろん告知”をリツイートするだけだということ。何よりも重要であったのが、会費は無料だということ。 

私は決意した。この奇妙な会に入会してみることにしたのである。そうすることによって、私の人生が大きく変わるかもしれない。そんな妄想に囚われつつ、リツイートボタンをクリックしたのであった。 

こうして私は「アぽろん」への入会したのであるが、ここでもう一つ奇妙なことに気づかざるを得なかった。例の“彼女”が「アぽろん」にいないのである。

アカウントは既に消失していた。だから私は、それとなく周りに聞いてみることにした。だが、誰もが“彼女”のことを知らないと言った。あたかも、そんな人物は最初から存在していなかったとでも言うように。彼女は一体、何者だったのだろうか? 

自由律な会「アぽろん」

そんな奇妙なエピソードを残しつつ、会員は今日も自由律俳句を詠んでいる。次に“彼女”に出会うのは、あなたかもしれない。





※事実に基づいたフィクションにて構成されています。