2012年4月30日月曜日

思うことと私のこと、少し(1)

私は、たまに「夢を見た」のタグで投稿する。

あれは、ほとんど脚色はしていない。
ねじ込みたいエピソードも泣く泣く、削りに削って、120文字ほどにする。

よい勉強になる。

自由律俳句に惹かれ、自らもはじめてから、ますます言葉を削るようになってきた。
それに比べると、「夢を見た」で使える120文字ほどの、なんと贅沢なことか、と感じる。

人のことはいいのだ。
人がどんなに長く詠もうが、短く詠もうが、人のことはよいのだ。

自分で許せる言葉の長さの基準を作り上げようと必死になっている。
自分でつかみかけたこの基準の誤差を縮めることに、腐心している。
愚かしく思うこともある。
今の(おそらくは将来も)私にとって、この腐心が実利に結びつくことはあるまい。

だがやめられない。

愚かしく生きることこそ、私の守ろうとしている信条であり、自嘲的、逆説的に言えば、そのように生きることしか、どうやらできないように思えて、我ながら笑える。

この一文は、自分の考えのフラツキを、まとめるために書き始めたのだ。
思考の結果よりも、現在の私にとっては思考の過程のほうが重要なのだ。
あるいは、笑いものになるかもしれないが、それでもよいと思う。
あえて、ここに晒すことで、これを曲解や不勉強の好例としてもらえればよい。

今日はこのぐらいのところでやめておこう。
この短い一文の中に、語り残し、積み残した課題がいくつかある。

備忘代わりにメモしておこう。
① なぜ、人のことはいいのか
② なぜ長さの基準にこだわりのか
③ 構成にはどのような基準があるのか
④ なぜ、「夢を見た」を書くのか

唐突に、終わる。そして、続く。

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

そうか。言葉を文章にして残す、そんな作業が私は苦手。でも、こうして残された文章から影響され、考える自分は好き。これからも、読ませていただきます。